道具に宿るもの

昨日、神蓍(しんし)という断易の道具が届きました。

昨年注文したものの、その後まったく連絡がなく、半ばあきらめていた品です。

ところが昨日、親族の方より一通のメールが届きました。

店主が病に伏していたこと、
連絡が遅れたことへのお詫び、
そして発送のお知らせ。
帰宅すると、そこに静かにその箱がありました。

蓋は寸分の狂いもなく、ぴたりと閉まる。
角は立っているのに、触れるとやわらかい。
木肌は滑らかで、静かに手に馴染む。
職人の手の「気」が、確かにそこにありました。

道具というのは、不思議なものです。
同じ機能を持つものであっても、
「ただの物」として感じるものと、
「気配」を帯びていると感じるものがある。
この神蓍は、後者でした。

振ると澄んだ音が響きます。
その音は、単なる音ではなく、
自分の心を整えよ、と告げる合図のようでした。
断易は、偶然の形を借りて、
今ここにおられる神様の言葉をを映し出します。
けれど、その偶然を扱う者の心が濁っていては、
いかに立派な理論を並べても、
本当の神託にはなりません。

道具では、誤魔化せない。

そして良い道具ほど、扱う者を試す。

今回、神蓍が届いたことは、
単に占具が増えたということではなく、
「これで立てる覚悟はあるか」
と問われたような気がしています。

店主は病に伏しておられるとのこと。
それでも、この精緻な箱は、確かに手元に届きました。
誰かが祈るように作ったものを、
私は今、受け取っている。
それならば、
こちらも祈るように扱わねばならない。
道具は物でありながら、
その背後には人の時間と想いが宿っています。
その重みを感じるとき、
占いは「商い」ではなく、
「務め」へと変わるのかもしれません。
神蓍とともに、
また一歩、深く想いは染み入ります。

お礼とともに、店主様の回復をお祈りしております。